@article{oai:toyama.repo.nii.ac.jp:00004829, author = {伊東, 多佳子}, journal = {GEIBUN : 富山大学芸術文化学部紀要}, month = {Feb}, note = {application/pdf, 自然を論じる上での困難は、当の自然が指すものが何なのかということがきわめて曖昧なことから生じる。たとえば、自然と人間というとき、すでにある一定の距離をとって対象として眺められる自然が前提になっている。これは風景を語るときにより顕著になる。ひとはそれを「美的に切り取られた自然の断片」として見ているのである。しかし、そのとき切り取られる「自然」とは一体何なのか。 環境芸術は自然環境を主題にして自然自体に素材を求めることで成立してきた。しかしそこで扱われる自然環境は、西洋哲学の伝統的な自然観ではもはや捉えきれなくなっている複雑な現代の自然環境である。未曾有の速度と規模で現在も進行している環境の悪化が示すことは、自然がもはや調和と秩序の中で循環する存在ではなく、死すべき運命の中に歴史を持つ人間と同じように、不可逆的な時間のうちに歴史を有する存在だということである。環境芸術もまたこのような現代の自然環境を強く映し出している。 本論文では、英国の彫刻家デイヴィッド・ナッシュ(David Nash 1945-) の作品《トネリコのドーム(Ash Dome 1977-)》をめぐって、最新の環境芸術のありかたとその可能性について考察する。, Article, GEIBUN : 富山大学芸術文化学部紀要,vol.7,Page 94-105}, pages = {94--105}, title = {自然の歴史化と環境芸術の物語性(2)デビッド・ナッシュ<トネリコのドーム>をめぐる考察}, volume = {7}, year = {2013} }