@article{oai:toyama.repo.nii.ac.jp:00004777, author = {伊東, 多佳子}, journal = {GEIBUN : 富山大学芸術文化学部紀要}, month = {Feb}, note = {application/pdf, 自然を論じる上での困難は、はたしてその当の自然が指すものが何なのかということがきわめてあいまいなことから生じる。たとえば自然と人間というとき、すでにある一定の距離をとって対象として眺められる自然が前提になっている。これは風景を語るときにより顕著になる。つまりひとはそれを「美的に切り取られた自然の断片」として見ているのである。しかし、そのとき切り取られる「自然」とは一体何なのか。 環境芸術は自然環境を主題にして自然自体にその素材を求めることで成立してきた。しかしそこで扱われる現代の自然環境は、西洋哲学の伝統的な自然観ではもはや捉えきれなくっている。かつて自然は循環し繰り返すものであって個体の死は問題にされず、永遠の生命を持つと定義されるのに対して、歴史は人間の生に代表されるように、一回限りのものであって、死すべき運命へと縛り付けられたものであるとされていた。しかし、未曾有の速度と規模で現在も進行している環境の悪化が示すことは、自然がもはや循環し調和の中で秩序が保たれる存在ではなく、死すべき運命の中で歴史性を持つ人間と同じように、不可逆的で歴史的な時間性を持つ存在であるということである。環境芸術もまたこのような現代の自然環境を強く映し出している。 本論文では、英国の彫刻家デイヴィッド・ナッシュ(David Nash 1945- ) の作品《木製の丸石(theWooden Boulder)》(1978- )をめぐって、最新の環境芸術のありかたとその可能性について考察する。, Article, GEIBUN : 富山大学芸術文化学部紀要,vol.5,Page 106-112}, pages = {106--112}, title = {自然の歴史化と環境芸術の物語性(1)}, volume = {5}, year = {2011} }