@article{oai:toyama.repo.nii.ac.jp:00000280, author = {青木, 恭子}, journal = {富山大学人文学部紀要}, month = {Feb}, note = {application/pdf, 帝政ロシアでは,1890 年代後半以降,ヨーロッパロシアからウラルを越えたアジアロシアへの移住・入植は,農業問題の解決や辺境地域の開発など経済面のみならず,帝国の統合や安全保障の強化といった政治・外交面でも重要な意味を持つ,国家的な事業として推進されていた。帝政ロシア政府にとっては,中央部ロシアから「貧農」をシベリアに送り出せば済むという問題ではなかった。入植者の生活がある程度安定しなければ,植民事業の目的が達せられたとは言えない。重要なのは,移住者を新天地に確実に定着させることだった。農民が移住を決断し実行するまでの過程には,移住先の選択も重要な要素として含まれている。本稿では,具体的な送出県から入植地への移動の流れを分析し,そこから読み取れる移住農民の行動の意味,いわば移動の論理を考察する。そして,なぜ農民がアジアロシアへ移住するのか,農業経営の合理化・近代化を図るのではなく,都市労働者になるのでもなく,故郷を離れて農業移住という道を選ぶのはなぜか,その選択の意味するところも探っていきたい。, Article, 富山大学人文学部紀要, 60号, Page 1-26}, pages = {1--26}, title = {帝政ロシア国内移住にみる移動の論理 : 移住者の出身地と移住先の分析から}, volume = {60}, year = {2014} }