@article{oai:toyama.repo.nii.ac.jp:00000270, author = {鈴木, 景二}, journal = {富山大学人文学部紀要}, month = {Feb}, note = {application/pdf, 小牧長久手の合戦で対時した織田信雄・徳川家康と豊臣秀吉が講和した天正12年(1584)の冬、秀吉への服従を潔しとしない富山城主佐々成政は、敵対勢力に固まれている状況にもかかわらず城を出て、信濃を経由し遠く浜松の家康のもとに向かった。真冬の積雪の多い時期に中部地方の山間部を往復したこの行動は、『太閤記』以来「さらさら越え」といわれ、戦国武将の壮挙として知られ、近年、そのルートや歴史的背景などの研究が相次いで発表されている。 筆者も『雑録追加』所収文書を分析した佐伯哲也氏の研究に触発されて、そのルートについて検討し、成政の浜松往復には上杉氏重臣山浦国清(村上義清子)の弟である村上義長が関わっていたこと、その道筋は越後(糸魚川付近)を経由したと推定されることを述べた。その後、道筋の推定に対して服部英雄氏から厳しい批判を受け、久保尚文氏からは別案が提起された。さらに深井甚三氏からも疑問点が提示されている。また、道筋を究明することの歴史研究上の意義について言及しなかったが、最近、萩原大輔氏が成政の浜松行前後の徳川家康との関係を再検討し、豊臣秀吉の北陸遠征の研究のなかに位置付けている。 このような諸研究をふまえ、本稿では佐々成政の浜松往復の道筋について新出史料を加えて再論し、天正十二年冬前後の成政と村上義長および家康をめぐる政治過程について検討することとする。, Article, 富山大学人文学部紀要, 58号, Page 363-390}, pages = {363--390}, title = {佐々成政の浜松往復前後の政治過程 : 村上義長関係文書から}, volume = {58}, year = {2013} }