@article{oai:toyama.repo.nii.ac.jp:00017473, author = {仲嶺, 政光}, journal = {富山大学地域連携推進機構生涯学習部門年報}, month = {Dec}, note = {▲各地域での市民講座等で設定されているような内容のものではなく、大学で行うものは、アカデミズムの府として、多少高度な内容のものに設定する方が、地域にとってはむしろ意義があると思う。独法化して採算第一主義になるとたいていの学問はつまらなくなるので、学生は集まるかも知れないが資格取りのための実用第一のものだけでなく、アカデミックなものを求めたい(公開授業受講生:2005年)。 ▲普段のままの大学の授業を受けていただき、大学の授業の雰囲気を感じていただいた。大学の施設利用について不慣れな点については気を配ったが、その他の点には特別に配慮せず、大学生と同じように扱った。普段のままの授業を「公開」することが良いと思う。〔公開授業の〕受講者がいるといって「よそ行き」の授業になってはならない(公開授業担当教師:2005年)。  このように今日、大学における学術知識の純粋性を守り抜かねばならない、という意見が存在する。この意見は、知識の多様化と情報メディアが高度に発達し、なおかつ露骨な競争主義的環境におかれるようになった現代社会の学術知識のありようと無関係にうまれたものではないだろう。それは多くの人びとが容易に多種多様な知識にアクセスすることが可能になったという積極面ばかりでなく、「ネットですべての知識が瞬時に検索可能となり、もう大学はいらなくなるといった悲観論」(吉見2011:248)も抱えざるをえない。そうした中で学術知識はその存在意義を自明に調達することが容易ではなくなりつつある。すなわち、学術知識を他の知識群と分かち、その自律性を堅持すべきである、という意見が存在すること自体、その分類と棲み分けを根底からゆるがす可能性が高まりつつあることを象徴しているように思われるからである。いま、学術知識は、あらゆる手段で外部に開かれ、公共の論議のもとでその存在意義を根気強く示していくことが求められるようになってきている。本稿は、その取り組み方の一つである日本の国立大学公開講座の受講料の徴収実態を主な分析対象とし、学術知識がいかなる形で社会に開放されているのか、開放されるべきなのか、という点を考察するものである。, Article, 富山大学地域連携推進機構生涯学習部門年報, 第21巻, 2019.12, Page 39-51}, pages = {39--51}, title = {学術知識の開放とその価格水準 : 日本の国立大学における公開講座の実施状況をふまえた分析}, volume = {21}, year = {2019} }