@article{oai:toyama.repo.nii.ac.jp:00015855, author = {田畑, 真美}, journal = {富山大学人文学部紀要}, month = {Aug}, note = {この小論は,伊藤仁斎における重要概念「仁」の理解を深めるために,仁斎が捉える「仁者」のありようを考察することを目的とする。「仁者」とは「仁」の徳を身につけ,その日々の生において「仁」を体現している存在のことをいう。「仁者」については以前少し考察したことがあるが今回は「憎む」(「憎まれる」),もしくは「恨む」(「恨まれる」)という事象に焦点を当てて,考えてみたい。というのは仁斎が言う「仁者」とは,これらの否定的な感情をやりとりする人間関係のうちに容易に絡め取られない者であると考えられるからである。副題を「「憎しみ」をこえゆく者」としたのも,その理由からである。もちろんだからといって,「仁者」が全く憎んだり恨んだりしないということを言いたいわけではない。「仁者」と呼ばれうる存在が,人間存在ならば必ず持たざるをえないこれらの感情とどのように関わっていくかが,ここでの問題なのである。 その場合,「仁者」自身がそれらの感情を抱くという観点とともに,それらの感情の対象となるという観点も同時に考慮されねばならない。つまり,「仁者」は憎む主体でもあり,憎まれる客体でもあるという観点である。混乱を恐れず言えば,そもそも憎む・憎まれるという行為の評価は,誰が誰をどのようにどのような状況でそうするかによっても多様となりうる。「仁者」の場合も同様である。先取りすれば「仁者」とは,よく憎み,よく憎まれる者であり, しかるべく憎み, しかるべく憎まれる者である。換言すれば「仁者」は,世間的な意味での憎むこと,憎まれることと別の脈絡に身を置く者であり,その意味では憎むことも憎まれることもないと言っても過言ではないのである。 ところで,「仁者」たることと「憎む」(「憎まれる」)ことの関係を考えるにあたり,手がかりとなる箇所の一つとして,「論語」の次の箇所,「子日,年四十而見悪焉,其終也已」(『論語』陽貨篇)を挙げることができる。ここでは孔子が,四十で誰からも憎まれるというありようを,自らを高めていく学びの過程の観点から酷評している。ここには,周到に成長しなかった者を見捨てるような厳しさすら滲み出ている。その趣旨はかえってそうならないようにと学ぶ者を鼓舞することにあると解釈でき,むしろその方が正当な解釈であると言えるが, 注目したいのは,憎まれるありようと学びの不首尾が結びつけられているところである。このことは,いわば学問の完成者たる「仁者」が憎まれないということともぴったりと符合している。「仁者」は学びによって「仁」を身につけているゆえに憎まれない存在であり,学びを成就していない者,すなわち「仁者」ではない者は,「仁」を身につけていないゆえに誰からも憎まれる対象である。換言すれば,「仁者」は誰からも好かれ,そうでない者は誰からも好かれないのである。その差は歴然としている。しかし,ここではもう少し慎重になる必要がある。四十にして誰からも好かれず,皆に憎まれるとは, どのような事態を指しているのだろうか。そもそも皆とは誰なのか。文字通り皆であるとしても,その中身は検討する必要がある。この検討も含め,まずはこの箇所をてがかりとして,「仁者」を巡る「憎む」「憎まれる」という現象について,考察することとする。そしてそのことを通じて,皆に憎まれない「仁者」のありようを多少なりとも浮き彫りにしたい。, Article, 富山大学人文学部紀要, 67号, 2017.08.21, Page 1-13}, pages = {1--13}, title = {「仁者」考 : 「憎しみ」をこえゆく者(1)}, volume = {67}, year = {2017} }