@article{oai:toyama.repo.nii.ac.jp:00015726, author = {田畑, 真美}, journal = {富山大学人文学部紀要}, month = {Mar}, note = {説経節『まつら長者』は,「凡夫」であるさよ姫が神になる物語である。「凡夫」すなわち普通の人間であり,むしろ救済を必要とする側の存在が,救済者たる神になるのは尋常な事態ではない。つまりそれは,さよ姫に「凡夫」でありながら神となり得るような,「凡夫」性を越える性質が備わっていた為にもたらされたものであった。 それでは,さよ姫を神たらしめたその性質とはどのようなものか。先取りすれば,それは己れを縛る我執を乗り越える精神的な強さであると言える。そもそも「凡夫」とは,我執に囚われそれ故に生じる苦のただ中にありながら,救済を求める受動的な存在である。それはいわば,人間存在一般のありようと言ってもよかろう。そして確かに,さよ姫自身にこの「凡夫」故の弱さが皆無であった訳ではない。それにも関わらず,さよ姫と「凡夫」一般の間には両者を隔てる決定的な質的差異があった。このことは具体的には,さよ姫とさよ姫が人身御供としてその前に差し出された大蛇(元の姿は上臈)及び同様に人身御供となり大蛇に命を取られた999人の女性達との対比によって示されうる。さよ姫は大蛇たちのように長年の苦難を味わうことなく,むしろ我執(我か身可愛さや,人身御供にされたことへの恨み)に囚われ苦しみ続ける大蛇たちを苦から解放し,果ては神となる。 本稿では,さよ姫と大蛇たちを分かつこととなった両者の質的差異-我執を乗り越えられるか否か-に即して,少なからず我執に囚われざるを得ない弱い人間存在か,我執を超克していくことの意味について考察し,その考察を通して、さよ姫は何故神=救済者たり得たのか,そもそも人間存在にとっての救済とは何かを明らかにするつもりである。, Article, 富山大学人文学部紀要, 34号, 2001.03.21, Page 27-46}, pages = {27--46}, title = {千年目の姫 : 『まつら長者』考}, volume = {34}, year = {2001} }