@article{oai:toyama.repo.nii.ac.jp:00015700, author = {東海, 義仁}, journal = {富山大学日本文学研究}, month = {Feb}, note = {「バースデイ・ガール」は、平成二八年度中学校用『伝え合う国語 中学国語3』(教育出版)の三年生に掲載され教科曹教材にもなっている、村上春樹の短編作品の―つであり、教科書に掲載されて日が浅いこともあって本作品の教材としての研究は不十分である。 深津謙一郎氏は「あなたはきっともう願ってしまったのよ」という彼女の台詞から「『僕』もかつて『あとになって思い直してひっこめることはできない』類の願いごとを『ひとつだけ』選んだ結果、今こうあるのだ、と。にもかかわらず、『僕』がそのことを思い出せないのは、『僕』がその起源(の選択)を想起しなくてよい程、今に不満を感じていないからである」と「僕」について解読して、老人については「彼女の話を聞いたあとの事後的な視点から、『何かのめぐりあわせ』というマジック・ワードで必然化してみせた」ことを指摘する。大木志門氏は「僕」が人生の「一回性を無自覚に生きてきた」存在であることと「人生の選択を迫られた」存在である彼女の対比、そしてその「人生の一回性」を「それ自体が呪い」である可能性を指摘する。 しかし、深津氏も大木氏もそれぞれ「僕」についての指摘が行き過ぎている。「あなたはきっともう願ってしまったのよ」という彼女の台詞の通りに解読しても、「僕」が今に不満を感じていないことは明らかにはならず、そもそも彼女との対比という点のみで「僕」が人生の「一回性を無自覚に生きてきた」存在であると導き出すのには無理がある。本作品は空白が多数存在しているため、その可能性を示すことはできても、断定するためにはあまりにも情報が足りないため、彼女の願いごと一つとっても特定することに意味はないだろう。 本稿では、西田谷洋氏が指摘するユーモアを用いた解読を踏まえながら、これまで見落とされていた作品内に存在する類似したレトリックについて指摘をしつつ、老人の発言を受け取ったことで変化が生じた彼女が、二十歳の誕生日から数十年後に「僕」とやり取りをする中にも変化が生じる可能性があることを確認する。 また、本作品の最後に老人の台詞が再挿入されることが強調することも明らかにする。, Article, 富山大学日本文学研究, 3号, 2018.2.15, Page 55-60}, pages = {55--60}, title = {村上春樹「バースデイ・ガール」における繰り返しのレトリック}, volume = {3}, year = {2018} }