@article{oai:toyama.repo.nii.ac.jp:00015699, author = {牧, 千夏}, journal = {富山大学日本文学研究}, month = {Feb}, note = {ある主張をもつ団体や運動が起こると、その主張への態度によって段階的な立場が形成される。たとえば政党や組合には、指導する者・その指導に従う者・団体を支援するシンパ・無関心な者・反対する者という立場がまず挙げられる。そしてどの立場をとるかによって、団体や運動のみえる部分も異なる。ある立場から平等にみえた主張が、別の立場から不平等に映ることはよくあることだ。 この問題は、文学作品で焦点化や語り手という物語の形式の問題と重なる。誰に焦点化するか、誰を語り手に選ぶかによって、その団体や運動の何を描くかが異なる。さらに、文学作品はフィクションとして仮構されるめに、意識的にであれ無意識的にであれ、そのことが鮮明となっている場合が多い。立場によってみえるもの、みえないものが異なること、文学作品はこの問題を考えるのに適している。 そこで本稿は、産業組合を描いた二つの文学作品、賀川豊彦「乳と蜜の流るゝ郷」(『家の光』一九三四・一九三五・一二)と宮沢賢治「ポラーノの広場」(生前未発表、最終稿は一九三三年か)とが、異なる立場に焦点化したことで、産業組合の異なる側面をそれぞれ明るみに出したことを論じる。JAの前身である産業組合には、指導部上層である農政官僚、地方の指導者である産業組合課や各組合長、そしてその指導に従う組合員、組合を一部利用する非加入者、そして産業組合に反対する反産業組合運動家など、多様な階級の人々が関係し、複数の立場が形成されていた。その一方で、当時産業組合に関する言論を発表する者は限られていた。指導部上層である農政官僚がその中心であり、ジャンルは評論や論説がほとんどであった。そのなかで、両作品は文学作品として地方の産業組合の関係者に焦点化したのである。指導部上層からみえなかった産業組合のあり方を読み解いていきたい。 具体的にはまず、産業組合の指導者に焦点化した、賀川豊彦「乳と蜜の流るゝ郷」について、産業組合によって村を更生させる努力と困難の過程が個人の生活レベルで明らかにされた一方で、指導される者・支援者・反対者の内面や背景が軽視されたことを論じる。次に、産業組合の支援者を語り手とした宮沢賢治「ポラーノの広場」について、自身の仕事や趣味を主として副次的に組合を支援する支援者のあり方が明らかにされた一方で、組合事業を進める中心人物の努力や苦労が表面化されなかったことを論じる。最後に、それぞれの作品が明らかにした産業組合の一面が、当時の産業組合にとってどのような意味をなしたかを論じる。, Article, 富山大学日本文学研究, 3号, 2018.2.15, Page 41-53}, pages = {41--53}, title = {指導者を語る 支援者が語る : 『乳と蜜の流るゝ郷』と「ポラーノの広場」の産業組合表象}, volume = {3}, year = {2018} }